エリス島が、ヨーロッパを離れてアメリカを目指して来た移民たちの歴史を語る上で、とても重要な意味を持つことになるのは1890年以降のことです。それ以前は州政府がそれぞれ異なる移民行政を行っており、ニューヨーク州の移民局はバッテリー地区のキャッスル・ガーデンに置かれていました。しかし、州が各々違う規則で入国管理を取り仕切るというやり方では、移民の増加や、運営者間にはびこる汚職や無能ぶりに対応できず、多くの問題や批判が起こりました。
20世紀に入ると、膨大な数の移民がヨーロッパ諸国、戦争、不安定な生活や悲惨な現実から逃げるようにして大西洋を渡り、アメリカ合衆国にやって来ました。ニューヨーク港湾内にあるエリス島の港は、アメリカ市民になることを夢見てやって来た1200万人を超える移民を迎え入れることになりますが、そこに到着した人々は、ニューヨークまでの航海記録などが記された書類を提出しなければ入国できませんでした。また入国管理事務所では医師が移民ひとりひとりを検査し、妊婦にはPG、ヘルニアのある人にはKなど、移民の背中に健康状態を示す省略文字をチョークで記していました。そしてこの最初の審査をパスした人たちは氏名が記録されてから、マンハッタン行きのフェリーが出ている港湾施設まで連れて行かれました。しかし、お年寄り、身体的に不自由な人、目が見えない、または耳が聞こえない人、そして伝染病にかかっている人、精神異常を抱えている人などは、アメリカの土を踏むことを断固として許されず、ニューヨークまで乗船してきた船にふたたび乗せられ、出発地に戻されたのでした。
エリス島は、ヨーロッパ大陸からニューヨークの港に日々やって来る多数の移民を受け入れられるだけの設備が整っていき、身体検査と税関(登記所)用の広いスペースに加え、大きな荷物置き場やレストラン、列車のチケット売り場までもが設置されました。第一次世界大戦時には、対戦国出身の人たちを在米年数に関わらず「敵および外国人容疑者」として拘置する場所として使われていたこともありました。1920年にはいったん連邦政府入国管理局の機能を取り戻しますが、第二次世界大戦中はふたたび戦争捕虜の拘置所として、また湾岸警備の訓練所として使用されていました。エリス島は多くの(実際1200万以上の)人々にとって「アメリカン・ドリーム」をつかむための入り口だったわけですが、ときにはブロークン・ドリーム(叶わぬ夢)の場所にもなったわけです。エリス島が「涙の島」という異名を持っているのも、そんな理由からなのです。