

京都北西部の西陣地区に息づく先染め織物。平安時代より、華やかな和衣装や寺院の装飾用織物として高貴な人々に愛された西陣織は、「元禄元年創業の弊社はまだまだ若輩」と細尾会長が謙遜するほど、重厚な歴史と文化を背負う伝統工芸だ。何世紀にもわたる研鑽と試行錯誤の末に生まれた技術は、日本が誇る匠の技そのもの。何重もの経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を駆使して、熟練の職人たちが手作業で繊細なパターンを織り出していく。光の加減で変化する色、柔らかな質感など、織物の最高峰と呼ぶにふさわしい気品あふれる美しさが特徴。


――御社は世界のラグジュアリーブランドとのコラボレーションを次々と成功させています。細尾会長は西陣織を世界へ広めた第一人者と伺いました。
2009年、クリスチャン・ディオールの旗艦店のインテリアに、弊社の西陣織が採用されたのが始めですね。その後、シャネルやルイ・ヴィトンなどのヨーロッパの一流ブランドのプロジェクトに次々に参加させてもらいました。今でこそ世界市場で認知度が高まりましたが、初めからスムーズに海外で受け入れられたわけではありませんよ。世界に挑戦し始めたのは2005年ごろからですが、パリの国際見本市にはじめて出展した時は、全く鳴かず飛ばずで、散々(笑)。それでもあきらめずに世界のいろいろな展示会や見本市に出展し続けていたところ、ニューヨークの展示会に訪れていた有名建築家のピーター・マリノ氏の目に留まったのです。マリノ氏は世界のハイブランドの設計デザインを多く手掛けており、我々の西陣織を自分のプロジェクトに使用したいという申し出がありました。
――この申し出を受けるかどうかが、細尾の分岐点となったのですね。
マリノ氏のプロジェクトを引き受ける時に、一番の問題になったのは織物のサイズでした。従来の西陣織の帯幅は32cmなのですが、海外のテキスタイルの基準である150cmに仕立ててほしいというのです。150cmの織物など、今までの西陣織の常識ではなかったこと。織るための機械も存在しないので、一から開発しなくてはなりません。のるかそるか。ここはまさに細尾の運命の別れ道でした。織機の開発から完成まで2年半。マリノ氏から依頼を受けて実際に織物が完成するまでトータルで考えると4年の歳月がかかりました。その間は、苦悩と試行錯誤の日々が続きましたね。

海外進出の鍵となった「織機」。

HOSOOの代表的なテキスタイル「Abstract」。季節や時刻によって変化する自然の光を受け、異なる表情を見せる。
――新しい試みに対して、周囲の反応はいかがでしたか。
織機を開発している期間は、会社内でも自分の中でもさまざまな葛藤がありました。会社の経営を心配して、「海外への進出はやめて今まで通り日本の市場だけに注力すべきだ」という社員がいれば、織機の開発に心血を注ぎ、「ぜひ海外プロジェクトを進めたい」という一派もいる。この頃が、経営者人生で最も苦しかった時かもしれない。「このまま海外戦略を推し進めていいのか」「今すぐやめたほうがよいのではないか」とずいぶんと悩み、眠れない日々を過ごしました。それでも海外戦略を進めたのは、ここで行動を起こさずにいたら、明るい未来は決して訪れないと感じたからです。どうせ経営をするなら明るいビジョンを持った方向へ進みたかった。「代々受け継がれた家業を潰すことになってもいい。とことん挑戦しよう!」と、腹をくくりました。
――決意の末のチャレンジだったのですね。その結果、マリノ氏のプロジェクトを成功させ、御社は世界市場で大きく躍進されました。海外と日本の反応の違いに戸惑われたことはありますか?
マリノ氏のプロジェクト以降、ヨーロッパの一流ブランドとの関係が深まり、西陣織がラグジュアリーな織物であることを世界に印象付けられたと思います。イタリアやフランスの文化や風土は日本と全く異なりますが、美しいものに対して敬意を払い、文化を愛して大切に活用する姿勢は日本と共通していると思いますね。ただ、世界市場に乗り出した当初、なるべく日本的なデザインで勝負しようとしていましたが、それは間違いでした。日本の織物だからといってヨーロッパの人たちに自分たちの価値を押し付けてはいけない。西洋には西洋の生活があり、現地のライフスタイルにしっくりと溶け込むデザインが求められます。そこで、ヨーロッパのラグジュアリーマーケットをよく知るデンマークのデザイン会社に依頼して現地のニーズを反映したところ、ヨーロッパ市場に受け入れられ、そこから海外での需要が一気に伸びました。

細尾の西陣織は国内の着物の世界だけにとどまらない。世界を魅了し続けるプロジェクトの一部をみてみよう。

「Four Seasons Hotel Kyoto」
京都の寺院が立ち並ぶエリアに立地するリゾートホテル。全客室、スイートルーム、パブリックスペースに、HOSOOが独自に開発したテキスタイルを使用。

「GUCCI NISHIJIN 第3章」
HOSOOの技法を用い、GGパターンとフローラ プリントを組み合わせ、花々やトンボといったモチーフを高度な職人技で繊細に再現。

©︎飯田グループホールディングス
「飯田グループ×大阪公立大学共同出展館」
大阪・関西万博のパビリオン。世界初となる西陣織の建材が話題に。

――そもそも、御社が世界市場に目を向けたきっかけは何だったのでしょうか?
海外とのビジネスに乗り出したのは、私の希望が大きかったですね。私はもともと、家業を継ぐ気はありませんでした。というのも、私が大学を卒業した1975年は日本の経済が海外に向いていた時期。当時は「どうせ仕事をするなら海外と関わる仕事がしたい」という気持ちが大きかった。ファッションに関しても、イタリアのブランドなどが日本で人気を博している頃でしたから、海外とのビジネス経験を積むために商社に入社しました。繊維部門に配属され、イタリアのミラノに4年ほど赴任していた時、現地のアパレル会社で世界中のさまざまな繊維や織物に初めて触れました。そこで慣れ親しんだ家業の西陣織が世界に類をみない素晴らしい織物であることに気づいたのです。
――海外に出て初めて家業の素晴らしさを認識されたのですね。細尾会長は西陣織のどのような魅力を再発見されたのでしょうか。
西陣織は幼いころから当たり前に私の周囲にあったので、それまでは織物のよさに目を向けることがなかったのですが、外に出て世界中の繊維や織物を知るにつれ、初めて西陣織の唯一無二の美しさに気づきました。とにかく組織作りが素晴らしい。西陣織は経糸と緯糸を三重・四重・五重と重ね、外からは見えないように金糸や金箔をひっそりと忍ばせ、光の加減でちらりと金が顔をのぞかせる奥ゆかしい美意識を持っています。非常に繊細で巧妙な技術がその美しさを支えています。そんな織物は世界中のどこにも見当たりません。その魅力を再発見した時、「西陣織を世界に広めなくては」と強く感じました。ちょうどその頃、当時社長をしていた父から「家を継いでほしい」という話があったので、「海外と取引させてくれるなら」という条件で弊社へ入社したんです(笑)。それから、商社時代に培ったノウハウを集め、海外展開を視野に入れた私の挑戦が始まりました。

――細尾会長は事業が順調に進んでいる時にも、常に一歩先の未来を見据えて挑戦をしてこられました。経営戦略の中にイノベーション精神が組み込まれているように感じます。
私の父の時代は日本の景気がよく、西陣織の業界全体が非常に潤っていました。しかし、弊社だけでなく、どんな企業でもずっとピークが続くことはありません。事実、私が家業を継いだころには、ビジネスに少し陰りが出ていたように思います。先代の頃は全く次の戦略を立てずに昔ながらの商売をしていましたから、私が起こそうとしていた改革に対する社員の反発も大きく、ものすごく苦労することになったのです(笑)。ですが、何もしなければ必ずビジネスは衰退します。現在、事業がうまくいっていたとしても、10年後に利益を生む新しい戦略を練っていなくてはいけない。ひとつの事業が下り坂になっても、次の事業が台頭しているという状況をずっと繰り返していくことです。伝統は革新の連続で作られるもの。常に次を考えてイノベーションを起こせるような企業体質であることが大切だと思います。
――現在、AIやテクノロジーと共創する新しい西陣織のプロジェクトも進められていますね。
農研機構(NARO)と共同開発した「光るシルク」やパナソニックと共同で作った「織ノ響」などは、現社長の長男が中心となって進めています。西陣織の伝統的な技術とAIのような最先端技術を組み合わせる試みは実に面白いと思いますね。今までになかった織物を作り出すことで、そこに新しい価値が生まれます。そうした価値が世界の人たちの生活を豊かにしていくのです。技術と文化を両輪にして進んでいくことで、次のイノベーションが起きると信じています。昨年12月にナレッジキャピタルで開催されたAsia Arts and Culture Networking Events(AACNE)のテーマは「文化の産業化、産業の文化化」でしたが、これはまさにイノベーションを起こすキーワードだと思います。文化と経済、文化と技術、こうしたものを一緒に廻していく必要性を感じていたので、AACNEのテーマにとても共感しました。

「Tranceflora - エイミの光るシルク」展
GUCCIがスプツニ子!氏に委託し、遺伝子組み換え技術で生まれた発光するシルクを使い、約3000個のカイコの繭を使った大規模なインスタレーションを展示。きものドレスの生地もHOSOOが提供した。

「織ノ響」
手を触れると、生地に織り込まれた金銀箔がセンサーとなり、音を奏でる。立体的な織により音の質感が変わるという。
Asia Arts and Culture Networking Event
アジアやヨーロッパなど世界各地に拠点を置く文化・芸術施設の担当者がナレッジキャピタルに集い、「文化の産業化、産業の文化化」をテーマに議論した。細尾会長は、初日に特別講演を行った。


World OMOSIROI AWARD 11th.
2月22日に開催されたナレッジキャピタルの「World OMOSIROI Award 11th.」は「日本文化のOMOSIROI」をテーマに催しが行われた。細尾会長自ら会場のホワイエに設けられたブースに立ち、平安時代以降に用いられた高位の宮中女性の上着である「小袿(こうちき)」を前に、西陣織の魅力を伝えた。「みなさんが興味を持ってくれてうれしい」と話してくれた。


「かさね色目のマカロン【冬】」
会場では細尾が監修を手掛ける「HOSOO LOUNGE」のマカロンを、特別に100個限定で販売。平安時代の装束の重ね色の美をテーマに、日本を代表する京都在住の菓子職人と協力して作り上げたHOSOOのオリジナルで、季節ごとに配色も味わいも変化する。写真は【冬】をイメージした松重・初雪・椿。


――新たなことを生み出し続ける秘訣は?
イノベーションは一人で起こすものではありません。会社の持つDNAとしてその精神は社員にも浸透させなくてはならない。イノベーションに挑戦する姿勢を自ら繰り返して社員に見せることです。私は言葉ではあまり難しいことは言わず、「人と同じことではなく、違うことをしろ」とだけ言っていますね。そして、社員から上がった面白いアイデアは、丁寧にすくい上げて検討するようにしています。そういう姿勢で会社経営に取り組んでいると、非常にやる気のある素晴らしい技術者たちが活躍してくれるようになりました。伝統文化の分野では人材を確保するのが難しいといわれている中、弊社の現在の技術者の7割は20代・30代の若手です。面白いことをしていると、そうした若い優秀な人材が集まって、会社をさらに活気づけてくれます。

西陣織は20以上あるというそれぞれの工程を、独立したマスタークラフトマンと呼ばれる職人が監修する。伝統を次代へ繋いでいくためには、技術者の育成も重要な課題だ。ども教育学科の学生と(株)Mutterによる自動販売機開発時のミーティング
――大学でも「伝統産業、創造」をテーマに教鞭をとっておられます。どのようにして日本の伝統文化を次の世代に伝えているのでしょうか。
大学では、言葉だけの講義ではなく、私たちが実際にやってきたことを画像や動画で見てもらいます。五感で感じとることが、イマジネーションにつながるのです。学生の中には、安全パイを好む人がいる中で、ベンチャーに興味のある人もいる。新しいことをやってみたいという学生の芽は、どんどんと育てていきたいですね。イノベーティブな仕事をする人をこの日本に増やしていければと思っています。
――ナレッジキャピタルのコアバリューは「OMOSIROI」ですが、細尾会長の取り組みはまさに「OMOSIROI」ことばかりです。
私にとって「OMOSIROI」とは、ユニークでオリジナルなことです。こうした価値を中心に据えて活動するナレッジキャピタルのような機関はなかなかないですね。自分の価値観と共通する点も多く、とても「OMOSIROI」と感じていますので、今後も協力して新しいことを一緒にできればいいなと考えています。また、ナレッジキャピタルのあるこの大阪という街、そして我々の会社のある京都、近代的な港町の神戸など、関西は多くの文化が共存している多様性に富んだエリアです。歴史的に見ても、大和文化、平安文化など多くの文化の中心として栄えてきました。こうした関西の多様な文化を掘り起こして、その価値を再評価していくと、新しい街の発展が見えてくるかもしれません。どこもかしこも東京と同じでは面白くないですからね。これからは、関西ならではの多様性をもっと押し出して、他にはないオリジナルな「OMOSIROI」エリアになればと期待しています。
――細尾会長のイノベーション精神と関西エリアへのエールがとても心にしみました。貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。