先日、イタリアでは中学校で行われている心と身体の教育をめぐって、全国的な議論が起こりました。一時的に授業を制限する案が出たものの、保護者や若者自身の強い反対を受け、最終的には現状維持が決まりました。この出来事を眺めながら、私は「話すこと」そのものがイタリアの文化に深く根づいているのだと改めて思いました。
その文化を最も実感する場が、私が毎年参加している舞台作品「シンポジウム」です。古代ギリシャの対話篇をモチーフに、詩人や政治家、哲学者などが“愛とは何か”を語り合う劇で、私はその音楽を担当しています。内容は決して直接的ではないものの、若者が自分の心と向き合うきっかけを与える、いわば“間接的な心の教育”のような側面があります。
劇は、エロス=愛をテーマにした連続的な語りで進んでいきます。登場人物たちがそれぞれの視点から愛を語るうちに、観客は自然と「自分にとっての愛とは何だろう」と考え始めます。哲学的なテーマでありながら、ユーモアや音楽が織り交ぜられた温かい雰囲気の作品で、毎年多くの学生が鑑賞します。
そして驚くべきことに、この劇はシスター(修道女)たちが運営する学校のオーディトリウムで上演されています。宗教的背景を持つ彼女たちが、若者の心と身体の問題に真正面から向き合い、演劇という形で“考える場”を提供している姿勢には、いつも深い敬意を覚えます。信仰と教育、そして芸術が、若者のために静かに手を取り合っているように感じられるのです。
上演後に行われる高校生との質疑応答も非常に魅力的です。
「この登場人物はどうしてそんなふうに愛を語ったのか?」
「自分の感情をどう扱えばいいのか?」
そんな素朴で率直な質問が、次々と舞台に投げかけられます。
大人も若者も同じ目線で語り合うようなその時間は、出演者にとっても観客にとっても忘れがたい濃密な対話の場となります。
こうした“自由に話せる空気”が、イタリアの若者を支えているのだと感じます。家庭でも学校でも、少し踏み込んだテーマに触れやすい雰囲気があり、子どもたちが抱えた疑問や不安が言葉として外へ出やすいのです。
一方日本では、思春期の心や身体の話題が慎重に扱われることが多く、慎重さが安心につながる面もありますが、若者が「どこで」「誰に」「どんなふうに」自分の気持ちを伝えれば良いのか、悩む場面も多いのではないでしょうか。
シンポジウムの舞台で感じる、あの自由で深い対話の空気を思い返しながら、イタリアでも日本でも、若者が安心して語り、聞いてもらえる場がもっと増えていくことを願っています。文化は違っても、若者の未来を支えたいという思いは、どの国の大人も同じでしょう。
