• 2026.03.23
  • 仮面と粉砂糖の季節
2月が近づくと、イタリアの菓子店に粉砂糖をまとった薄い揚げ菓子が並びます。キアッケレ(Chiacchiere)。イタリア語で「おしゃべり」という意味です。軽やかに砕けるその食感は、人々の会話を弾ませるカーニバルの象徴でもあります。


カーニバル(Carnevale)は復活祭前の祝祭で、毎年日付が変わります。中心となるのは「脂の火曜日(Martedì Grasso)」ですが、町によって期間や盛り上がりのピークはさまざま。なかでも華やかさで知られるのがCarnevale di Venezia。およそ2週間にわたり、サン・マルコ広場は豪奢な衣装と仮面に包まれます。
ヴェネツィアの仮面文化には、興味深い背景があります。18世紀、共和国時代のヴェネツィアでは、身分差を超えて人々が交流できるよう、仮面の着用が広く認められていました。商人も貴族も、「顔」を持たない存在として階級を隠し街に出ることができたのです。さらに仮面は、禁じられた恋を守るため、借金取りから逃れるため、あるいは権力を風刺するための道具にもなりました。匿名性がもたらす自由は、恋や政治の駆け引き、そしてゴシップを活気づけました。仮面は単なる装飾ではなく、社会の秩序を一時的に逆転させる装置でもあったからです。
しかし、カーニバルの表情はヴェネツィアだけではありません。北イタリアのイヴレーアでは、人々が本気でオレンジを投げ合う「オレンジ合戦」が行われます。中世の圧政に抵抗した民衆の物語を再現するもので、優雅な仮面とは対照的な荒々しさを持っています。またサルデーニャ島では、黒い木製の仮面をかぶった不気味な行列が静かに町を練り歩きます。同じカーニバルでも、土地ごとにまったく異なる表情を見せるのです。
お菓子の名前にも、そんな自由さが表れています。キアッケレはローマではフラッペ、トスカーナではチェンチ、ピエモンテではブジエ(嘘)と呼ばれ、さらに一部地域ではラットゥーゲ(Lattughe)、つまり「レタス」。薄く波打つ形が葉に似ているからという、思わず微笑む理由です。イタリアが長く都市国家の集合体だった歴史から、同じ菓子でも土地ごとに名前が変わりました。「おしゃべり」「嘘」「レタス」。どれもどこか仮面の祭りにふさわしい言葉遊びの響きを持っています。
キアッケレは小麦粉と卵の生地を薄くのばし、揚げて粉砂糖をふるだけ。口に入れるとパリッと崩れ、甘さは控えめです。粉砂糖が舞う様子は、カーニバルを楽しむ子どもたちが紙吹雪を散らして走り回る姿にも似ています。それは春を迎える淡雪のようでもあります。
町ごとに日程が違い、伝統も呼び名も異なる。それでも共通しているのは、冬の終わりに人々が仮面をつけ、笑い、語り合い、少しだけ日常を裏返す時間を大切にすること。
あなたも、仮面の下で繰り広げられた奇想天外な出来事や物語に思いを馳せながら、キアッケレを味わってみませんか。


画像:本人撮影

特派員

  • 三上 由里子
  • 職業音楽家

チェリスト。ミラノを本拠地にソロとアンサンブルの演奏活動中。クラシックからポップスまで幅広いジャンルのレパートリーを持ち、イタリアの人気コメディアンの番組にバンド出演中。

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