写真1
写真1は町に入るロータリーに設置されたウクライナ表示です。左端はウクライナの国旗と国章、右端には従来の市の旗と紋章が見て取れます。偶然とはいえ両方とも地の部分の色が同じですね。青は空を表し、黄色または金色は小麦畑の象徴だそうです。
写真2
写真3
写真4
そして町の名前だけではなく市中の主な通りや広場にもウクライナにちなんだ名前を付けました。写真2.は首都のキーウ市通り、写真3はオデーサ市通り、写真4.マリウポリ広場、等々です。
この名前の変更に先立つ4月4日 市議会はウクライナ避難民の受け入れを表明し協力する家族や家を提供するアボランティアの募集を始めました。そして町にある空き家になっていた以前修道女が経営していた学校施設をリフォームして避難民受け入れセンターとして使用することにしました。そして避難民25人程度、5~6家族を受けいれる計画を発表してからほんの2日間で3000ユーロ 42万円余りの義援金が集まったそうです。この議決から一か月も経たずに4月20日時点ですでに20人のウクライナ避難民が到着しました。この町と通りの名称変更はウクライナとの連帯を示すと同時に受け入れる避難民の方たちを町を挙げて歓迎するという意味もあったのです。
以前の投稿にも書きましたがセルバンテスがドン・キホーテ後編72章でバルセロナを称える文章の中に『・・・外国人を迎える宿、貧しい人々の避難場所・・・侮辱を受けた人々が報われる土地、固い友情に快く応えてくれる所・・・』、とあります。400年経った現在でもこの精神を受け継いでいるアンダルシアの小さな町があるとはスペイン在住の身としては誇らしい思いです。https://kc-i.jp/activity/kwn/yamada_s/20190814/
もう一つ、これは悲しい思い出になりますが、湾岸戦争が終盤を向かえた1991年2月26日の午後、日本人観光客を乗せたツアーバスがセビリアから次の目的地であるコルドバに向かう途中で事故を起こし9名の命が奪われドライバーを含め6名の方たちが重軽傷を負いました。現場はこの町の横を通る高速道路のフエンテス・デ・アンダルシア出口分岐点の橋脚部分で、町の人たちの協力を得て負傷者はすぐさま60㎞離れたセビリアの町へ緊急搬送されたのです。この事故の事後処理に関わった者として忘れられない町となりました。
ついでにと言ってはなんですが、今注目されているSDGsの取り組みの中でその7番目の目標である『 エネルギーをみんなにそしてクリーンに』に合致する発電施設がこの町にあります。日本でもよく見かける太陽光発電とは異なり太陽の熱を利用する太陽熱発電施設で蓄電装置を備えているので夜でも雨天でも15時間は発電することが可能だそうです。この発電所はすでに11年の稼働実績があり2万7500世帯分の電力を供給する能力があるそうです。写真5は高さ140mの中央塔、そして取り囲む2569基の反射鏡は太陽光をタワーの先端に効率よく集光させるために刻々と変化する太陽の向きに合わせて20秒間隔で位置が自動修正されています。
写真5
ウクライナからスペイン、フエンテス・デ・アンダルシアへ繋がり、とりとめのない話になってしましました。