• 2021.07.28
  • アステカ文明
メキシコシティはかつてテスココ湖の上に築いたテノチティトランという都市でした。この都市は13世紀末にメキシコ盆地にやってきたアステカ人によって築かれ、アステカ帝国の最盛期には20万から30万人もの人々が生活していたとされています。16世紀初めにスペイン人エルナン・コルテスによって破壊され、その遺跡の上にメキシコシティが作られました。湖の上に作られた都市であるため地震に弱く、現在のメキシコシティは地盤沈下で傾いている建物がソカロ周辺に多く見られます。
アステカ文明は1428年頃から1521年の約95年間、メキシコ中部で栄えたアステカ帝国の文明で、メソアメリカ文明の最後に現れた文明です。諸説ありますが、アステカ人はメシカ人とも言い、メキシコという国名はアステカの言語であるナワトル語でメシトリの地を意味するメシコに由来します。メシトリはアステカ人の守護神で、太陽と戦いと狩猟の神であるウィツィロポチトリの別名です。このウィツィロポチトリ神がアステカ人に「サボテンに鷲が止まった場所」を都にするよう予言し1325年にテノチティトラン、現在のメキシコシティを都にしたそうです。メキシコ国旗はこの予言がデザインされています。
アステカといえば太陽の石。名前だけではピンとこなくても一度は見たことがあるのではと思います。メキシコシティにあるメキシコ国立人類学博物館で実物を見ることができます。

太陽の石

アステカカレンダーと呼ばれることもありますが、正確には暦ではなくこの時代に考えられていた宇宙観が表されているそう。アステカ人は20日で1か月、18か月365日を1年としていて地動説を信じるなど天文学が発達しており、1年を365日とする太陽暦に沿って農耕をしていたとされることからカレンダーではと考えられていたことがあるようです。太陽の石は直径3.6ⅿ、24tもあるとても大きなもので、国立人類学博物館アステカ室の中央に展示されています。装飾も細かく綺麗な状態で保存されていて、太陽の石を見る為だけでも訪れる価値がある博物館です。

メキシコ国立人類学博物館 全て見学するには数日かかると言われる広さ

太陽の石は元々太陽神殿の上にあったようですが、スペイン人に破壊されるのを避けるためソカロの地中に隠されていました。それを1790年に発見し現在に至ります。
太陽の石のように、メキシコシティのソカロを中心とする歴史地区の地下にはアステカ文明の遺跡が今も眠っています。首都の中心であるこの場所にはスペイン人侵略者により新たに街が作られたために発掘作業をすることは叶いませんが、ソカロに隣接するテンプロ・マヨールというアステカ帝国の都テノチティトランの大神殿跡は発掘が進み見学することができます。1978年にカテドラル(大聖堂)北東部での電気工事中に遺物が発見され、これをきっかけに1980年代にかけて発掘調査が行われました。



テンプロ・マヨール遺跡

テンプロ・マヨールには二つの神殿があり、新しい王が即位するたびに先王の神殿を覆うように新しい神殿が建てられ、テンプロ・マヨールでは7層の神殿が見つかっています。この遺跡は破壊されているためほとんどが基礎部のみで分かりにくいかもしれませんが、博物館もあるので一緒に見学するのがおすすめです。


鷲の姿をしたアステカ戦士の像


雨の神トラロックの像 彩色がはっきり残っている

この他、大きな壁ほどもある女神の石版や様々な展示がありかなり見応えがあります。
ソカロでは休日等の人が大勢集まる時に、アステカ人の衣装に身を包んだ人達のダンスを見ることができます。これはコンチェロスの踊りと呼ばれるアステカの宗教儀式で踊られていた民族舞踏です。

コンチェロスの踊り

このアステカの衣装を着た人とは写真も撮ってもらえるのですが、有料ですのでご注意を。そしてソカロの至る所でお香を焚きお祓いの儀式をしてくれる人もいます。休日にはソカロでアステカ文明に触れてみてください。

特派員

  • パドラ リボド 裕美
  • 年齢
  • 性別
  • 職業主婦

メキシコの首都、メキシコシティで夫と娘の3人暮らし。夫の仕事で来墨し、スペイン語はできないながらもママ友もでき、毎日を気ままに楽しんでいます。陽気で魅力的なメキシコのことをたくさん知ってもらいたいです!

パドラ リボド 裕美の記事一覧を見る

最新記事

おすすめ記事

リポーター

最新記事

おすすめ記事

PAGE TOP