夏が終わりを迎えて畑仕事が片づくと、男たちは海辺へ行ってアンチョビ(アッチューガ)と魚の塩漬けを仕入れ、内陸部へ売りに行きました。こうしてアッチューガイ(アンチョビ売り)が誕生したのです。
この男たちは魚を加工したのではなく、リグーリア中、そしてピエモンテや近隣のロンバルディアで、ただ売り歩いたのでした。
たいていの場合、一家の財を増やすことを目的とした出稼ぎの旅ではありませんでした。魚の行商は、雪と霜に閉ざされて畑を耕すことができない冬の間に、日々を生き抜くために生まれた季節労働だったのです。
ただでさえ貧しい家計に負担をかけずに少しでもお金を稼ぐため、9月から5月にかけて男たち、そして少年たちは魚の行商人になる許可を得て、リグーリアの海辺へ向かいました。女たちだけが家に残り、子供や老人や牛の世話をしました。 実をいうと、アッチューガ売りの成り立ちについてはいくつもの説がありますが、どれも伝説の霧に包まれています。当時のアンチョビと魚の塩漬けの売買からは、なぜ、そしてどうやってその商売がリグーリアのヴァッレ・マラで始まったのかを知ることはできません。
いくつかの説によると、そもそもの始まりは、重税を課せられていた塩を売るためだったと言われています。抜け目のない人々が、樽の半分まで塩を詰め、その上に塩漬けにしたアンチョビを重ねて入れて貴重な塩を隠したのです。ところがアンチョビがよく売れることがわかって、密売人たちはそれを新たな商売にしました。魚の売買に制限はなかったので、その方がリスクも少なかったのです。
私たちにわかることは、市場があればどこであれ、必ず物を売り買いしようと思う人がいるということです。木綿でも、ニットウェアでも、チーズでも、靴でも、そしてもちろんアンチョビでも。
市場で売られている塩漬けアンチョビ
市場で “Oooohhh anciue, anciue” (anciueはリグーリア地方の方言でアンチョビのこと)という呼び声が聞こえると、そこで魚が売られていることがわかります。
アッチューガ売りのイメージはたいてい似たようなものです。肩に白いキャンバス地のずだ袋をかけ、anciueの樽を運んでいます。行商人たちはcarussと呼ばれる軽くて丈夫な荷車を押していますが、その多くは海の色を思い起こさせる青い色合いに塗られています。
アンチョビが売り切れると、渓谷の住人たちは列車に乗って仕入先に戻り、それから荷車を押して街から街へ、市から市へ、村から村へ魚を売って歩きます。
美しい季節が到来してはじめて、山の牧草地へ戻って刈り入れをするのです。
もちろん魚売りがきっかけとなって富を築いた人もいました。多数の従業員と水産加工会社ばかりから成る正真正銘の経済帝国を造り上げ、輸出も始めて、スペインにまで輸出するようになった人もいます。
第二次世界大戦後、ほとんどのアッチューガ売りは故郷の村を捨て、平地へ下りて魚の売買に専念するようになりました。
荷車は姿を消し、エンジンのついた車両がそれに取って代わり、次第に楽になり、設備もますます整ってきました。今も市場の売店の間にマラ峡谷から来たアンチョビ売りが見かけられますが、その数は少なくなる一方です。今も昔もきつい仕事であることに変わりはないので、親の商売を継ぐ子どもたちはわずかしかおらず、経済状況がよくなってきたおかげで、他の職業に就くことが多くなったのです。
この伝統を失わないために、そして次の世代に残して行くために、リグーリアの山間部の村は、地元の芸術家や職人や畜産家や魚の行商人の再発見をテーマとした渓谷の旅行案内をマルチメディアを通して発信しています。
アンチョビは地味な魚で、それを売り歩いた男たちも地味な存在でしたが、その物語は忘れられてはなりません。それもこの地方の伝統のひとつなのですから。