ポルトガルで25日、独裁政治を終わらせ民主化に道を開いた1974年の「カーネーション革命」から50年の記念日を迎えた。
リスボンでは、軍事パレードがあり、異常なまでの軍人が大通りや広場を埋め尽くしていた。メイン通りでは戦車が、テージョ川沖には軍艦までもが参加し、市民も赤い花を身につけ、大通りを行進した。
1932年〜1968年まで、ポルトガルは独裁政治化にあった。当時首相になったサラザールは、独裁的な全体主義体制を作り上げ、それをサラザール体制、またサラザールが「エスタド・ノヴォ体制(新しい国家)」と名付けたので、「エスタド・ノヴォ体制」ともいう。これは、サラザールが引退し、死んだ後も後継者によって継承され、ポルトガルにおけるファシズムは、1974年のカーネーション革命によって民主化が始まるまで、約半世紀続いた。
Year of Africa(アフリカの年)と言われた1960年、イギリスやフランスはアフリカに持つ植民地を全てを解放し、17カ国もの独立国が誕生した。ポルトガルは、アンゴラ、モザンビーク、ギネ・ビサウ。カボ・ヴェルデ、サントメ・プリンシペに本国の20倍に相当する植民地を有しており、これらは、国際的競争力の弱いポルトガルの製造業にとって不可欠な原料供給地であった。サラザールは、国連の植民地解放の勧告決議案を無視し続ける。
植民地の住民の忍耐の限界に達し、1961年アンゴラで警察署を襲撃し、植民地解放闘争の狼煙をあげた。この解放運動の波は、モザンビーク、ギネ・ビサウへと広がり、ソビエト連邦とキューバに支援された独立革命軍との植民地戦争が13年も続くのだ。
この間、戦争を鎮圧するために、本国から次々と若者が戦場に送り込まれ、戦争末期には国家予算の四割がつぎ込まれた。国の財政が厳しくなり、国民の生活も苦しくなる。
この戦争に初めから疑問を抱いていたのは大学予備兵であったが、次第に若い将校たちも植民地戦争に批判的になっていった。彼らがたどりついた方策は、独裁政権の打倒であり、国内の民主化、植民地解放であった。ゲリラ戦争の最前線に立つ大佐たちは「大尉運動」を結成し、1974年に革命を成功させたのである。
この1974年に発生した軍事クーデターは、ヨーロッパ最長の独裁体制「エスタド・ノヴォ」をほとんど無血に終わらせた、無血革命である。
カーネーション革命という名がつく理由は、独裁政権を倒した兵士たちの銃口に、赤いカーネションをさして祝福したことからである。
今年、50年目の「4月25日」を迎え、リスボンでは、一年を通してこの革命を記念するイベントが続く予定だ。