• 2018.04.02
  • エディンバラ城にまつわる王家の歴史のお話
エディンバラ城は、都心の死火山の頂上から周辺一帯を見下ろすように佇んでいる、スコットランド屈指の有名なお城です。この中に保存されている、クラウン・ジュエルズ、ストーン・オブ・デスティニー、オナーズ・オブ・スコットランド(スコットランドの三種の神器である王冠、笏、刀の総称)は、まさに国家の象徴と呼ぶべき由緒正しい財宝です。
イングランド女王の戴冠といえば、堂々たる伝統を持つ壮麗な式典を連想しますが、宝石を散りばめた王冠を戴き、優美な刀と笏を携えた国王たちを主役とするスコットランドのセレモニーも、同様の豪華さを誇っていたのです。
オーナーズ・オブ・スコットランドとストーン・オブ・デスティニーは、歴史を通じてスコットランド王および英国王の戴冠式で使われてきたもの。数百年も昔の品ですが、保存状態も良く、エディンバラ城に行けば実物をじっくりと見ることができます。 そもそもの起源は15世紀で、王家の象徴としては最古の存在です。

お城を訪れた時に知ったのですが、これらは1543年、スターリング城で若きメアリー・スチュアートの王冠として初めて使用され、その後はスコットランド王ジェームズ6世、チャールズ1世、チャールズ2世の戴冠式にも使われたということです。オリバー・クロムウェルに没収されないよう、17世紀の中頃には隠されていました。
最初はダノター城に隠され、次いでダノター城が攻められた時に持ち出されて、数キロ先のキネフ教区に9年間も埋められていました。その財宝が再び姿を現したのは王政復古の年、1660年でした。
宝物は王家の人々のもとに帰り、初のスコットランド議会による王政の日々を彩ったのです。
1707年の合同法により不要となったこれらの宝は、さながらおとぎ話のようにエディンバラ城内の収納庫に閉じ込められ、1世紀以上も人々の記憶から追いやられてしまいました。 その後、ウォルター・スコット卿の要請により行われた城内の捜査の結果、それらは再び発見されることになったのです。

第2次世界大戦中、ナチスの侵略に備えて再び隠し場所行きの憂き目にあいますが、終戦とともに解放されました。
ストーン・オブ・デスティニーの正確な来歴は解明されておらず、聖書由来であると主張する向きもあれば、スコットランド原住民に起源を求める説も見られます。貴石よりも価値が低く、美術品としては質素で地味ですが、歴代のスコットランド王たちの戴冠式に立ち会いながら、歴史をこの上なく華やかに彩ってきました。この石は後にイングランドに移され、ロンドンのウェストミンスター寺院に展示されることになりました。
1950年のクリスマス、スコットランドの愛国主義者の学生4人組がこの石をウェストミンスター寺院から盗み出し、スコットランドに持ち帰るという事件が起きました。市民の抗議行動があり、数か月後、聖アンデレ十字の旗に包まれた状態でアーブロース修道院の中から発見された石は、イギリス警察によってウェストミンスター寺院に戻されています。1953年に女王陛下の戴冠式で使われたのを最後に、1996年の聖アンドリューの日、ストーン・オブ・デスティニーはスコットランドに返還されました。それ以降、エディンバラ城で開催される儀式や祝典では、オーナーズ・オブ・スコットランドと共に幾度となくお披露目の機会を与えられています。エディンバラで例年(毎年一回)約1万人を動員するロイヤルマイルのパレードでは、ホリールードハウス宮殿からエディンバラ城まで、この石が要人たちとともに護衛付きで行進するのです。
防犯上の理由により王家の財宝の写真はNGなのですが、かわりに英国のお城の中では最も多く撮影されていると思われるエディンバラ城の画像をお見せしますので、どうぞこちらをご覧ください。


特派員

  • パトリック・ サッコ
  • 年齢酉年(とり)
  • 性別
  • 職業エリオット・コンサルティング社エンジニア

こんにちは! 私はパトリックと言います。スコットランドのエジンバラ在住で、土木技師をしています。趣味は詩を書くことです。9年ほど前にイタリアからスコットランドへ移住し、この土地に惚れ込んでいます。雨の多い気候を好まない人もいますが、その気候のおかげでここは緑豊かな風景に恵まれています。暇を見つけては、車でエジンバラ郊外へ湖や渓谷を見に出かけています。

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