ドイツで建物について話すときに、よくアルトバウとノイバウという区別がされます。大雑把には、アルトバウは伝統的な様式のものを、ノイバウは戦後の新しい建物を指します。1949年以前のものをアルトバウとすべきという意見もありますが、厳密な築年数というよりは、天井高や梁などの構造による分類と考えた方がよいでしょう。
ベルリン市内のアルトバウは、1862年のホーブレヒトプランを元に作られました。このプランにより、ベルリンのアルトバウは連なる中庭を囲んで、コの字やロの字の建物が並ぶという形が一般的になりました。アルトバウには色々とご紹介したい文化的・歴史的な特徴が詰まっているのですが、今回はその中の一つ、地下室についてお話ししたいと思います。
ベルリン市のある場所は、元々は沼沢地でしたので、地下水面がわりと高く、場所によっては地下3メートルの深さで水が出ます。昔の建築技術では浸水しない地下室を作れなかったので、ベルリンの家に地下室が付けられるようになったのは比較的新しいことです。
19世紀前半に入って、最初に地下室を利用したのはビール醸造所でした。下面発酵ビールという、低温でゆっくりと発酵するビールを醸造するため、温度の低い場所が必要でした。バルニムというベルリン北部のやや高い土地に、この地下貯蔵室付きのビール醸造所が作られました。バルニムでは19世紀後半の工業化時代に一般邸宅にも地下室が造られるようになりました。
1920年代になると、ようやく水を通さない基礎の建てられ方が確立しました。地下室は冷蔵庫のかわりになったり、貧困層の住居として使われることもありました。
地下室の様子
第二次世界戦争の時に地下室の役割が変わりました。戦争の最後の三年間、ベルリンは他のドイツの町と比べても空襲が激しくなっていました。合わせて363回爆撃されたベルリンには当然たくさんの防空壕がありましたが、住民も多かったので、中に避難することが出来たのは、人口のたった2%ほどでした。防空壕が足りなかったので一般住宅の地下室が代わりに使われました。
今も普通に使っている地下室にも、よく見ると当時の名残を見ることができます。例えば私が住んでいる建物の地下室には今でも防毒室のドアが見えます。残念ながら鍵がついているので、何がドアの後ろにあるのは分かりません。
私の地下室にある防毒室のドア
現在ベルリンでは地下室が様々な用途に利用されています。小さいクラブやシアターなども、ありますが、もっとも一般的な使われ方は物置です。中庭の四方を囲むアルトバウの地下は、建物の形に添って回廊のように繋がっている場合が多くあります。地下室というよりは地下回廊という形で、簡単な板の仕切りで世帯ごとに区切られ、住民が使えるようになっています。
ただ湿気が多く黴が生え易いので、大切な物は地下に置かないほうが良いと思います。私自身は地下室を暖炉で燃やす石炭を置くためだけのために使っています。