1400年代の終わりから1500年代の初めにかけては、この街出身のシクストゥス4世(本名はフランチェスコ・デッラ・ローヴェレ)がバチカン市国の教皇に就任したおかげで、サヴォーナに大きな富と繁栄がもたらされた時代でした。
シクストゥス4世は1471年に教皇となり、13年後に亡くなるまで教皇として君臨しました。
教皇としての功績には世界的に有名なシスティナ礼拝堂をバチカン市国に建造したことや、バチカン図書館の改造などがあります。
ローマのシスティナ礼拝堂の建設を自ら依頼したシクストゥス4世は、両親の霊廟として同名の礼拝堂をサヴォーナのヒストリカルセンター(Historical Center of Savona)にも建設しました。
システィナ礼拝堂の小さなレプリカであるサヴォーナの礼拝堂は、市の中心にある大聖堂内に守られるように建っていて、ローマの礼拝堂をよく知っている人なら天井画にミケランジェロの作風やテーマを容易に感じ取ることができることでしょう。
Nostra Signora di Castelloの小礼拝堂の多翼祭壇画など、サヴォーナにあるその他の重要作品の製作を依頼した人物に、シクストゥス4世の甥(おい)であり、1500年代初頭に教皇となったユリウス2世がいます。
この代表的な二人の宗教的人物の影響力と擁護のおかげでサヴォーナは非常に重要視され、この時代に制作された数多くの作品や建物は今でも称賛されています。
教皇ユリウス2世(本名はジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ)はシクストゥス4世と同じ名字ですが、それは2人が同じリグリアの貴族の名家、デッラ・ローヴェレ家の出だからです。
現在、サヴォーナのNostra Signora di Castelloの小礼拝堂には、ヴィンチェンツォ・フォッパとルドヴィコ・ブレアが手掛けた格式高いデッラ・ローヴェレの多翼祭壇画が設置されています。1490年に制作された作品で、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ、後の教皇ユリウス2世が自ら依頼しました。
多翼祭壇画は木とエナメルでできていて、海辺のプリアマール要塞にある古い大聖堂の中央祭壇に設置するために制作されました。しかし、ジェノヴァとサヴォーナの街が地域戦争を始めると、貴重な多翼祭壇画は要塞から小礼拝堂へと移され、今もそこで保護されています。
小礼拝堂は正式な教会ではありません。牧師もいなければ、宗教的儀式も行われていないからです。運営しているのは聖職者ではないボランティアですが、教会に属しているため神聖な場所であり続けています。
ところで、この多翼祭壇画は火事に遭ったことがありました。全焼は免れましたが、すさまじい熱のせいで描かれている人物の何人かは黒っぽく見え、陰気な雰囲気を醸し出しています。
教皇ベネディクト16世は2008年に、地下聖堂の祭壇に黄金のバラを供えて大聖堂の礼拝堂に気品を添え、Piazza della Vecchia Stazione(古い駅の広場)でミサを行って教皇の街の重要性を再認識させました。