彼は、ポルトガルの水泳コーチとして、息子のアレシャンドレをオリンピックの平泳ぎ決勝へと導いた人物である。
彼は、ポルトガルに住む、最も有名な日本人であることは間違いなく、ポルトガルのスポーツ界で最も重要な人物の一人なのです。
横地さん2012年。当時の日本人にしては高身長。背筋がピシっとしてて、頑丈な体つき。
横地氏は、戦時中であった1935年に生まれました。1945年8月6日に広島市に投下された原子爆弾を目撃し、生き延びた人物であります。
早稲田大学に在学中は、水泳選手として活躍し、数々の功績を残してオリンピックへの水泳選手としての参加が見込まれていましたが、怪我で断念、しかしポルトガルの水泳代表チーム監督としては、5回のオリンピックに出場しています。
彼が初めてポルトガルにやってきたのは1958年。Sport Algés e Dafundoクラブ(https://www.sportalgesedafundo.com/)が、水泳コーチを在ポルトガル日本大使館に依頼され、その後横地さんは日本水泳連盟の推薦で、ポルトガルに渡ったみたいです。当初は3ヶ月の契約だったのが、気づけば60年の時が経っていました。
私が横地さんと知り合ったのは、80年代初期、父がポルトガルに赴任した時でした。
補習校の生徒全員で泳ぎを教えて頂いたこと、ご自宅ではイルマさん(横地さんの奥様)のお母さまが椅子にずっと座っておられ、実はちょっぴり怖かったこと、私がマリーナでボートから落ちた際、片手ですくい上げてくれたことなど、今でも鮮明に覚えています。
ちょうど横地さんの次女が私と年齢が近かったので、一緒に庭の木にのぼり、びわを取って食べたことも懐かしい思い出です。
長男のアレシャンドレは、巨体に似合わずどんな食べ物にもケチャップをかけて食べる可愛らしい一面があり、みんなでミスターケチャップと呼んでいました。そんな彼は、その時既に立派なスイマーで、84年のロス五輪、200メートル平泳ぎ決勝戦で7位という成績を収め、それは今日までポルトガル史上、唯一のオリンピック水泳決勝進出なのです。
横地さんと横地さんが椿姫と呼ぶ、奥様のイルマさん。2012年
私がそれから20年ほどのブランクをあけてポルトガルに戻り再会を果たした際、マリーナでボートから落ちた子として、しっかりと覚えていてくださったのは、恥ずかしながら嬉しかったです。
私と横地さん、エリセイラのレストランにて。2014年
横地さんは、水泳コーチとしての輝かしい過去以外にも驚くような体験をいくつもされており、またそれを爽快なテンポで話して下さるので、いつの間にかyokochiワールドにひきずり込まれてしまうのです。
特に印象に残っているのは、ポルトガルにやってきた際、他に搭乗者がおらず、キャビンアテンダントは22歳の青年だった横地さんを囲んで座り、怖がる青年を可哀想だと、ずっと手を握っていてくれた話。それからなんと言っても広島の話でしょう。
広島に原爆が落ちたとき、横地さんは9歳の少年でした。小学校の教室から、地平線に巨大な赤い球が落ちてくるのを見て、横地さんは太陽が落ちてきたと思ったそうです。雷のような音がして、それを追うように強風が吹き、横地少年は、先生の指示で廊下側に身を屈める生徒たちとは真逆のガラスが砕け散った窓の方へ駆け寄り、落ちてくる太陽を見ようとしました。2階にあった教室の窓から身を出した時、勢い余ってそのまま下まで落下し、怖くてそのまま家まで走って帰ったのだとか。
横地さんの家は、「リトルボーイ」爆弾が落ちた場所から12キロ離れたところにありました。家中の窓ガラスが割れていたけれど、家そのものは立っていたそうです。数日後、父親に連れられて広島市に行った9歳の少年は、我々が教科書で教えられるような悲惨な光景を目の当たりにしたのでした。
広島の少年は、青年を経て大人になり、ポルトガルで結婚し3人の子供の父親になり、7人の孫にも恵まれました。
そして今年、1月15日、87歳のおじいさんは、ゆっくりと息を引き取りました。
波瀾万丈な時代を生き抜き、大往生を遂げるとは、まさにこういう事なのだとしみじみと感じたのでした。
Korean Festivalにて、私の娘と横地さんの孫(左手前の2人)。韓国五輪の水泳競技中のアレシャンドレの展示写真の前で。