• 2024.09.03
  • 裸への意識
素っ裸で、自然の中を夜散歩。こんなイベントがあったりする。
裸体主義協会が推進するナイトツーリストウォークというもので、既に第8回目とのこと。まず、散歩前に協会本部で裸体での夕食会があり、その後、市が、散歩する森林公園の前まで交通手段を提供してくれる。参加者は道を照らすための懐中電灯を持参するだけで済み、散歩の終わりには公園施設でシャワーを浴びることができるそうだ。
裸で夜、森林を散歩する意味が全く見出せない私だが、それ以前に恐ろしいほどの虫くわれを想像し、話を聞いただけでもゾッとしてしまう。
だって、夜の森林はむしろ肌を見せないような格好で行くでしょ?
ボリボリ掻いたら恥ずかしい箇所も、虫に食われる訳でしょ?
あー、嫌だ、嫌だ。私は昔から誰よりも虫を引き寄せるのです。

この団体、もちろん夜散歩以外にも活動はある。食事会、プールパーティー、キャンプなど、また全てのイベントが裸ということでもないみたいだ。人々を自然に近づけることを目的として、社会をナチュリズム(裸体主義)に解放し、人生哲学のタブーをなくしていきたいというのが彼らのモットー。

ポルトガルには9つの公式なヌーディストビーチがある。また、アクセスが大変な故、ヌーディストビーチになっているような非公式なビーチも多くある。その中には、ゲイのヌーディストビーチもあったり。
それは、日本で言う、混浴場といった感じなのだろうか。

西洋では、裸体でいることが平気なタイプとその逆とに真っ二つに分かれると感じる。極端に言えば、子供とは一緒にシャワーに入ったことがないと言う親と、家の中では、子供がいようが平気で裸になると言う親もいる。
普通のビーチでもトップレスの女性はいるし、一緒にいる家族がそれを恥じている場合もある。(無料)キャンプ場の共同水場で、平気でシャワーを浴びている男女がいる中、全くその場に近づけない人さえいる。

日本では、子供とお風呂に入るのが当たり前の社会なので、少なくとも子供が小さい時には裸を見せていることになる。銭湯や温泉でも裸は普通だが、かといって、ビーチなどの公の場で、トップレスになる人はほとんどいない。
逆に西洋人は、裸で銭湯・温泉に入ることを嫌がる場合が多い。男性のケースだと、同性ばかりの空間で裸になることに抵抗があるらしく、むしろ女湯の方であれば抵抗がないといっていた。

また、肌の露出に関しても、西洋と日本とでは大きな差があると思う。西洋では、体型や年齢に関係なく、体にフィットした服を着るし、透けてるようなドレスも着る。また、何段腹のおばあちゃんであっても、ビキニでビーチに行く。
日本の昭和では、おじいちゃんがステテコで外を散歩したり、おばあちゃんは夏はシミーズ姿で平気で近所の人を家に招いたりしていた記憶があるが、今では逆に夏は頭のてっぺんから足先まで肌を覆っている女性がいるし、街歩く人の姿を見ても、あまり露出した格好の人はいない。

アダムとイブが知恵の実を食べたことで、裸に恥じらいを覚えたと教えられた西洋人は、比較的露出と裸OKで、天照大神の前で裸踊りをしたアメノウズメを女神とする日本人は、露出と裸がNGと言うのが私の観点なのだが、ここまで述べた肌の露出や裸に対する意識が簡単に分割して捉えられないのは、裸体への意識は、国、文化、宗教、環境などを超越したものだからだろう。

裸への意識というのは、時代と共に変化してきたという事実はあるとして、どの時代でも、状況に合わせて「裸」に対する意味が確立し、その認識が共有されることで裸への意識が生まれるのだと思う。

裸体主義者たちは、裸に対しての羞恥心を感じない。だからこそ、その共通認識の人たちが集うためのビーチといった場所が存在する訳だ。もしもそういう場に、裸に対して性的なものを感じる人がいれば、そこは一気に、いやらしい空間になるのだと思う。

私の友達で一人、裸に関して無頓着な人がいる。前が大きく開いた服から胸が露わになっていたりすることもしばしば。それが当たり前すぎて、周りも注意さえしない。彼女に対して裸とはなんなのか確認したことはないけれど、周りの目を全く気にせず、自分というものをしっかりと持つ、強い精神を感じさせられる。
私は、「裸」を人格の判断基準にしているのかもしれない。

特派員

  • 太田めぐみ
  • 職業修復士、通訳、コーディネーター/Insitu(修復)、Kaminari-sama、ノバジカ、他

ポルトガル在住の保存修復士。主に、絵画(壁画)や金箔装飾を専門にし、ユネスコ世界遺産建築物や大統領邸の内部を手がける。シルバーコースト近くの村で、地域に根付いた田舎暮らしを満喫している。趣味は、土いじり。

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