• 2015.11.27
  • ベルリン史のゾエトロープ・フィヒテブンカー
うちの近所に少し形の変わった建物があります。変な形と思いつつ素通りしてしまうのが、生活に忙しい大人の悲しさです。しかし、こちらでご紹介しようと今回入ってみて、住宅地に何気なく建つこの建物に、随分と歴史の詰まっている事に驚かされました。

009_151127_001隣接する運動場と東側の外観


円筒形にドーム状のガラス屋根を載せたこの建造物は、1874年に建てられたもので、街灯にガスを供給する為のガスタンクでした。直径54m、高さ27mの建築物には3万㎥のガスを貯蔵できたそうですが、ガス灯から電灯に替わった為、1922年に使われなくなり、以後20年近く空のまま放置してありました。1940年には防空壕として利用する為、ポーランド人やフランス人捕虜を使って厚さ3m以上の屋根を入れるなどの改修工事が行われ、6階建て収容人数6000人の、女性と子供の為の防空壕として生まれ変わりました。

当時このような防空施設は市内に3カ所ありましたが、大ベルリン計画により人口が450万人に膨れ上がっていましたから、6000人ではたかが知れています。そこで、施設の利用には武器製造などに従事していた職業婦人が優先されました。ホテルの様にフロントで鍵を預かって自分専用の個室を使える仕組みで、タイル張りのロビーにエレベーターまで取り付けられており、防空施設としては豪華なものでした。

009_151127_002正面から見た外観
009_151127_003円筒状に合わせてカーブした廊下
                       

これだけの人数を密閉状態のタンクに収容する為、浄化機能付きの換気設備が設置されており、冬場は熱交換器を使って暖かい空気を送り込んでいました。給湯室やリネン室の他、簡易医務室もあり、施術中に停電しても急に真っ暗にならないよう医務室の天井は夜光塗料が塗られています。そして停電時は多少の発電が出来るようディーゼル発電機も備え付けられています。しかもこの発電機は現在も使用可能で、実際に動かしてもらうと宮崎アニメの様にゴゴゴと動きだし、照明をボワンと灯しました。

空襲が激しくなるに連れて予定収容人数を超える市民が駆け込み、45年2月3日の大空襲の際には3万人の市民が身を潜めました。2000トンの爆弾と250トンの焼夷弾が、北西クロイツベルクに集中的に落とされたこの日は強風で、25000人の死者が出たと推測されています。防空施設に押し掛けた3万人を延べ床面積から逆算すると、1平米当たり4人の密集状態です。3万の恐怖心がその密度でひしめいていた事、入り切れずに防空施設の外で亡くなっていった人々を思うと、今一度、戦争の理不尽さを感じずにはいられません。

009_151127_004防空施設時代のリネン室 
009_151127_005防空施設の外で破壊された乳母車
 

1945年4月、この建物はロシア軍に占拠され、終戦を迎えるとアメリカの管轄地区に編入されました。終戦直後は家を失った人々や東ドイツからの難民などが身を寄せ、後には少年刑務所、老人ホームを経て、最終的には路上生活者の為の簡易宿泊所として使用されていました。

しかし一泊2.5マルクの宿泊所は不法売春などの犯罪がはびこり、63年には殺人事件も発生、衛生上の理由で閉鎖されました。その後は、冷戦下にあった西ベルリン政府が、48年のようなベルリン封鎖が再び起きる可能性に備え、大量の缶詰などを貯蔵する為の倉庫として使用していました。しかし壁は崩壊、再び空のまま16年間放置されました。

009_151127_006少年刑務所時代の部屋
009_151127_007老人ホーム時代の部屋
 

その後、空爆の危険も封鎖の心配も無くなり、2007年にはドーム屋根部分と最上階の2層だけは屋上庭園付きの高級マンションとして改築され、分譲販売されました。隣接する児童公園の側から防空壕を眺めていると、このような母子が爆弾の中を逃げ惑っていたのだと、過去のベルリンや現在の紛争地を思い、今回もまた平和の大切さが身に沁みます。



特派員

  • 渡辺 玲
  • 職業通訳、中華料理店店長代理

ベルリン自由大学の修士課程を卒業。専門分野は、映画理論、ドイツ新現象学、神経哲学。ベルリン在住13年目、住んでいると当たり前になってしまうベルリン生活を、皆さんへご紹介することで再発見していきたいと思っています。

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