写真1
写真2
『Picasso, el Greco y el cubismo analítico ピカソ、エル・グレコと分析的キュビスム』と題した展覧会が、ピカソ没後50年の追悼イベントの一つとしてプラド美術館で開催されています(13/06/2023-17/09/2023)。そこではエル・グレコの聖人達の肖像画とピカソの作品を並べて展示し、その関係性を示しています。写真1.と写真2.はその一部です。
1881年地中海の港町マラガで生れたピカソは若くして絵画の才能を発揮し16歳の若さでマドリード王立サン・フェルナンド美術アカデミーに在籍を許されながらマドリード滞在時期の大部分の時間はプラド美術館で過ごしていたそうです。
写真3
写真4
写真3は今回の展示物の一つで当時プラド美術館で模写を許可された人のリストです。ピカソは登録番号677番でアカデミー入学直後の1897年10月13日に模写の許可を取得しました。この時は40年後に自身がこの美術館の館長に指名されるとは想像もつかなかったでしょう。写真4は共和国政府より発行された1936年9月26日付館長任命書です。
彼はしばしば学友の Bernareggi君(上記のリストの683番)と連れだってプラドで模写をしていて、それらをバルセロナで美術教師をしていたピカソの父に送って評価を仰いでいました。ベラスケス、ゴヤ、そしてベネチア派等の模写作品については及第でしたが、エル・グレコの模写については『君たちは道を踏み違えている』という反応だったそうです。対象を大胆にデフォルメする画風が受け入れられず没後300年経ってもある種危険な画家とみなされていたようですね。
そして19世紀から20世紀にかけてフランスやスペインの前衛画家達がエル・グレコにアカデミズムに囚われない新たな芸術の可能性をみて再評価、熱狂的に支持しはじめました。この流行は“エル・グレコ神話”と呼ばれ、大原美術館を創設した大原孫三郎の命を受けフランスで美術品を収集していた児島虎次郎にエル・グレコの“受胎告知”を購入せしめた一因でもあるでしょう。
写真5
ところで、ピカソ達が始めたキュビズムは“分析的キュビズムcubismo analítico”から“統合的キュビズムcubismo sintético”に発展していった中で今回の展示では初期の分析的キュビズムを取り上げています。しかしその前にキュビズムの嚆矢といわれる作品があります。それはピカソが1907年にバルセロナの紅灯の巷の辻君たちを描いた写真5.の『アビニョ通りの娘たちLes senyoretes del carrer d'Avinyó 』です。対象を立方体・キューブとして認識して再構成する手法はピカソ以前のセザンヌが用いているので”セザンヌ的キュビズム cubismo cezaniano”又はキュビズムの原型との意味から”プロト・キュビズム proto-cubismo”とも言われています。
そこでピカソのキュビズムの発端はセザンヌの作品やアフリカ美術との出会いにあるというのが定説ですが、今回の展覧会では対象物を消化しデフォルメして再構築したエル・グレコの作品に16歳の若さで対峙したプラド美術館での体験がピカソに芽生えたキュビズムの始まりではないかと思わせる展示でした。まさに”エル・グレコ的キュビズム cubismo grequiano”とも呼べるのではないでしょうか。
生地クレタ島を離れてベネチア、ローマと転々とした後にたどり着いたスペインの古都トレドで独自の境地を開き生涯を終えたエル・グレコ、故郷スペインを後にしてパリを経て、生地マラガによく似た南フランスで最後を迎えたピカソ、似たような境遇の二人の巨匠の邂逅展でもありました。
個人的な話で恐縮ですが、『プラド美術館』、『エル・グレコ』、『模写』という三題噺的に並べると思い出されるのは、以前私が仕事柄足しげく美術館を訪れていた時期、エル・グレコの展示室で頻繁にお見掛けした模写に励んでる日本人女性の姿でした。1975年から35年もの長い間、模写を通じてエル・グレコを精緻に見つめ続けた、多分日本人で最もエル・グレコの作品に精通している画家でしょう。長崎県出身の野田みちこ画伯です。
奇しくもプラド美術館と連動するように日本でもキュビズム展が開催されます。
『パリ ポンピドゥーセンター キュビズム展 ―美の革命』
於:国立西洋美術館
会期:2023年10月3日(火)~ 2024年1月28日(日)