スペイン語に興味を持つ人でしたら、一度は見聞きしたことがあり、激安の殿堂でも名が知られた長編小説のドン・キホーテ物語、前編の原題は『El Ingenioso Hidalgo Don Quijote De La Mancha』 でこのHidalgo は郷士と訳され下級貴族の称号という意味があります。スペインではごく一般的な苗字なので、もしやと思い検索したところ、想像通り現パリ市長は1959年スペイン南西部アンダルシアはカディス県の港町サン・フェルナンドのお生まれでした。幼いころ両親とともにフランスへ移住、14歳でフランス国籍を取得した後、一度失効したスペイン国籍も取り戻し、国籍を二つもっています。現在パリでは最も有名なスペイン出身者の一人ではないでしょうか。写真1は1962年移住して間もなくリヨン市のベルクール広場で撮影されたHidalgo一家です。
写真1
と,ここで突然ですが、パリと深く関わったスペイン人についてちょっと調べてみました。
〇フランシスコ・ザビエル(1506年ナバラ王国)日本にキリスト教を伝えた聖人。スペイン北東部ナバラ王国の貴族の家に生まれ、19歳の若さでパリ大学へ赴き9年後の1534年8月15日に殉教者の丘(モンマルトル)で盟友イグナシオ・デ・ロヨラ達6人とイエズス会を創立するに至ります。パリでの生活が彼の深い信仰心を育んだのでしょう。もしイエズス会が創立されなかったら、日本の上智大学もなかったかもしれませんね。奇しくも創立から15年後の同日8月15日ザビエルは鹿児島に上陸し日本での布教活動を始めています。ちなみにこの記念すべき8月15日はイエス・キリストの母親である聖母マリアが天に召された“聖母被昇天”の日です。写真2はザビエル聖人のご実家であるザビエル城で左手は1901年併設された聖堂です。
写真2
〇パブロ・ルイス・ピカソ(1881年マラガ市アンダルシア)1900年開催のパリ万博に自身の作品が展示されたのを機会に19歳にして初めてパリを訪れた後、パリに住居を定めて様々な革新的芸術活動を展開しました。パリ無しでピカソを語ることはできないでしょう。写真3はキュビズムの嚆矢とも評価される『アビニョ通りの娘たち』を制作したモンマルトルのアトリエ住宅“洗濯船”の1910年頃の姿です。
写真3
〇ラファエル・ナダル・パレラ(1986年マジョルカ島マナコル市バレアレス諸島自治州)2005年19歳の時にパリ、ローラン・ギャロスで全仏オープンに初優勝した後、クレー・キングとまで称され2022年には同大会で14回目の優勝という大記録を打ち立てました。パリとの相性抜群のテニス選手で2015年にはパリ市議会が授与する最高位の勲章La medaille Grand Vermeil de la Ville de ParisをHidalgo市長から受け取っています。写真4は2005年全仏オープンで勝利した時です。ナダル・ジダンと準優勝のプエルタ。写真5は19年後今回のパリ五輪開会式で聖火をジダンから受け取るナダルです。
写真4
写真5
人生において最も多感な年齢で幸運にもパリに出会った3人のスペイン人、19歳括りでざっとまとめてみました。
ついでと言ってはなんですが、パリに魅了された19歳の日本人もおります。
〇岡本太郎(1911年神奈川県高津村)1930年1月19歳にして両親と共にパリ到着 1940年までフランスに滞在しました。特にピカソ作品との出会いが彼の芸術が向かう方向を定めた模様です。写真6.後年ピカソと訪れた陶芸工房にて。
写真6
彼らはパリと出会い、夢と希望を叶えられた極々少数の選ばれた人達ですね。しかし舞台裏には溢れる才能と真摯な努力にも関わらず憧れの地で夢破れ、挫折した無数の人々の悲哀も花の都パリの根底に流れていることでしょう。突然“パリゴロ”などという悲しくも懐かしい言葉を思い出しました。それこそ金子光春『ねむれ巴里』の世界です。