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当時悪化の一途をたどる日米関係を背景に、外務省きっての情報通だった須磨公使の喫緊の目的はドイツ・イタリア等の枢軸国に近しいスペインで主に米国の動向を探る諜報活動でした。その拠点となったのがマドリードに設立された在スペイン大日本帝国公使館です。建物自体は1919年に建設された貴族の邸宅で、スペイン市民戦争終結後、日本公使館となりました。写真2は現在の姿で、在マドリード州中央政府代表部として使用されています。写真3.のように今でも所々に当時の雰囲気が残されています。

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マドリード北部に位置するこの地域はお屋敷街として知られ、今でもドイツ、イタリア、米国、などの各国大使館があり、現日本大使館からもわずか700mの距離に位置しています。公使はこのお屋敷から連合国側、それも主に米国で得た情報を、ベルリンやローマを経由して本邦へ報告していました。この際、米国で活躍(暗躍?)したのが公使が設立したTO機関と呼ばれる情報収集網です。
創設は真珠湾攻撃から2週間後の1941年12月22日でした。そしてクリスマス、年始を過ぎた翌年1月9日、本邦へ『東』と命名した組織開設を打電、その初期費用として40万円、今の価値で約4億円を計上しています。当初は情報を盗むという目的なので盗機関と命名しようとしましたが余りにもあからさますぎるので盗を東と変更したそうです。
組織を作り上げて後、実際に米国に派遣されたスペイン人諜報員達の活動が本格化したのは1942年7月頃からで、太平洋戦争で攻守が逆転したといわれるガダルカナルの戦いへの米軍派遣状況や新型爆弾(原爆)開発などの情報を事前に得て合衆国本土からメキシコ、カリブ経由でマドリードへ送信していました。
しかしこれらの貴重な情報は軍部に取り上げられることなく、次第に米国諜報部の追跡も激しくなり、組織は消滅しました。さらに1945年2月、多くのスペイン人も犠牲になった日本軍によるフィリピンでのマニラ大虐殺事件をきっかけにスペインは同年4月11日に国交断絶を通告、須磨公使も翌年1月日本へ送還されるまで、マドリードの公使館に軟禁状態になりました。
その間、約半年間の蟄居の徒然に131冊に及ぶ膨大な回想録を執筆、そのうち26冊がスペイン美術論でした。彼は公務の一環としての情報収集活動のほかに私的にスペインの美術品収集活動にも励んでいたのです。
長くなりましたので美術愛好家としての須磨彌吉郎については次の機会にいたします。