なかなか癒されない失恋の痛み。憎しみ、悲しみ、怒り、慰撫、後悔、絶望、断念などの色々な感情が目まぐるしく入れ替わって、まるで自分の感情の支配を巡る実権争いを繰り広げているかのような時期。
心臓を焼かれるような、抉り取られるかのようなこんな辛い想いをさせられる残酷な部分を「恋愛」が持ち合わせていたなんて、 この世の中で最高の至福を与えてくれるかのような顔をしてこの「恋愛」は近寄ってきたのに、気が付けば「恋愛」に崖から突き落とされている。こんな激しい痛みは一度で十分、恋愛なんて二度としたくない、この世(恋愛)と縁が無い世界に行ってしまいたい、と思ったことはありませんか?
なぜ失恋について書き始めたかと言うと、いえいえ、別に失恋をしたわけではありませんよ。ミラノの失恋事情のレポートを書こうと思ったわけでもありません。絶望に追いやられた時に人が救いを求める場所の一つを訪れる機会があって、その時にそれに絡んで失恋も思い出したのです。
絶望のどん底の気持ちから「修道女になりたい」と言う失恋をした女性を慰めなくてはならなかった事が私には少なくとも2回あって、そう 言う彼女たちの心情をその時はわかるような又よくわからないで「しっかりして!気持ちを取り直したら、次の新たな素敵な恋愛で舞い上ってるに違いないんだから、今は辛いだろうけど頑張ってよ!!」と慰めていたのですが、そう言う私にも「修道女になってやるぅー」という気持ちが 脳裏をかすめた瞬間があって、それは、当に失恋をした時だったのでした。
これでは、修道女たちは絶望した元失恋者だと言っているかのように聞こえますが、もちろん、そんな一時的な感情で世間と断絶した修道女になる訳では無いのはお分かりですよね?
先日、俗界と断絶した修道女の世界を垣間みる機会がありました。この「垣間みる」の表現にぴったりの大きさの扉を見せてもらって感嘆したのです。ですがその扉は、隔離された修道女たちを垣間見るためのものではなくて、その扉の向こう側にある教会で行われるミサにおいて神父様が信者に与えるパンを、壁のこちら側でミサを拝聴している修道女たちも受け取られるように作られた、顔の大きさも無いほどの小さな扉です。
ここの修道院は今では高齢者のための介護施設に改装されて使われていますが、所々に修道院であった名残がうかがえ、その中で一番象徴的なのがパンを受け取っていたこの扉。
起伏のなだらかな緑の丘が施設の周りを囲んでいて、なんと落ち着く場所なのでしょう。その当時の隔離された修道女たちが礼拝に専念する姿を思い浮かべながら、庭園に出てしばしの静寂を満喫しました。と、この庭園から見える先の丘に、立派な建物が見えました。今は農家となっているそうですが、その当時は修道士の施設だったとか。修道士??
道こそは通っていないけれど、突っ切ればたったの600、700メートルの距離のところに修道士の修道院があったとは、なんとも微妙な位置で不思議な感じがしました。更に興味深い歴史があったかもしれないのですが、その時にはあいにく事情に詳しい人に出会う事が出来ませんでした。次回の訪問の楽しみにとっておきましょう。