内向的な自分に私は時々ガッカリさせられるのですが、職業上のある意味で、内気、恥ずかしがり屋、人見知りをしている場合では無いので社交的なフリを努めてします。
イタリアという国は人間関係が密で、日本ではお節介とみなされ敬遠される言動も、イタリアではごく普通のやり取り。シャイなんですいません、なんてモジモジしてはいられない国。例えばショッピングでお店に入ると、店員さんに自分の希望を伝えて商品を持ってきてもらって見せてもらう、というのがごく普通の買い物の仕方だったという事から、「やり取り」が日常的に重要な意味を持っていることが伺えませんか?
最近では、イタリアでのショッピングスタイルも変わって日本の様式により近いのですが、20年前にイタリアに移住したばかりの私は言語力が乏しい上に、日本で育ったバックグラウンドの影響もあってこの「やり取り」が苦手でショッピングに困惑したものでした。あの頃は、商品を見回して希望にあった物を掴んでお金を払えば済むショッピングスタイルが便利で恋しかった。
このやり取りを面白く感じられるようになったのは、やはり日常会話ができるようになってからでしょうか。西洋人は自分の希望を明確にしていて、且つそれを伝えるための意思が明確にしている事が当たり前であるとわかってくると、家族関係、恋人関係、友人関係や仕事先での人間関係においてもなるほど、と思わされる事がしばしばあるわけです。それぞれが個人的な希望を全面に出しておいて、その内容がしばし日本では概して自己中心的またはわがままな言動にみなされる事であっても、こちらでは「やり取り」で徐々に相手や周りとの距離を縮めたり、折衷点を見つけたりする当たり前の通り道のようです。
そんな密接な人間関係の内の1つに感心するのが、スーパーに行くと年に1回、ボランティア活動をする青少年たちに出会います。スーパーの入り口で青少年たちにビニール袋を渡されて、そのまま買い物へと進み貧困で困っている人に買ってあげたい食料品を買ってそのビール袋に入れて青少年たちに渡すシステムとなっています。保存が効く物ならなんでも良くて、それがたとえワンパックでも良いのです。パスタ、お米、魚の缶詰、ビスケットなどなど。イタリアで数あるボランティア活動の中で一番大々的に行われているのが、この25年続いている食料品による救済活動です。
「いくら学校の成績が良くても人間的に愛情や魅力がなきゃダメなんだよ。無償で人を助ける心が養われていないと人生である時、頓挫や挫折するぞ」と青少年たちのご両親はボランティア活動の意味を教えて強く推奨しているようで、多くの若者が活動に参加しています。
このボランティア活動は年々育っていき、今では年齢問わずに全国15万人近くのボランティアがこの活動に参加しているだけでなく、2010年からは収容所に入っている人もこのボランティア活動に参加するシステムも生まれたそうで、社会的にとても有意義な活動として高く評価されています。
さぁ、内向的なあなたも外交的なあなたも、こんな話を聞いたらお節介でも密な人間関係の良さを認めざるを得ないでしょう?