私は音楽家なので演奏以外の作業は全て鈍く、それ故に、もうリタイアしたいと叫びたくなるのは、音楽分野以外の日常生活上の必要事項が次から次へと積もって行くからなのでしょう。それは習得してみたい、勉強してみたいと思う事柄からは程遠いのです。
今の世の中はデジタル化が進んだお陰で、ノウハウさえ飲み込めば自分一人で実現出来たと言う手応えを得られるアプリがいっぱい。ところがその中で、私を喜ばせたのは束の間で直ぐに困惑したデジタル化がありました。例えば、自宅でのホームバンキング。「銀行に行かずに、家で済ませられるって?!いいねー!」と便利さの仮面を被って私に近づいて来たサービス。銀行業務手続き操作をイタリア語で読んでよくわからず、再読の後、操作につまずきながら何時間もかかって習得させられる羽目に。窓口の銀行員がする作業を私が習得しなくてはならない状況がわかった時に罵詈雑言。銀行員が家に来てくれて、デジタルシステムを駆使して手続きを済ませてくれるサービスだったらいいのにぃ。
そんな「もう、ダメ」モードに入っている時に、偶然、ダスティン ホフマン監督の「カルテット」と言う映画を見ました。引退した音楽家のためのイギリスの長閑な田園地帯にある老人ホームを舞台にしたお話なのです。この映画のインスピレーション源となった老人ホームが、実はミラノに。
著名なイタリア人作曲家、ジュゼッペ ヴェルディが私費で建てたこの老人ホーム。日本のテレビ番組でも取り上げられたことがあったので、この老人ホームに暮らす音楽家や各自の部屋、演奏会が行われる大きくてゴージャスな広間などを記憶していらっしゃる方もあるかもしれません。
私も、ピアニストとのデュオのコンサートをさせてもらえるチャンスに恵まれて訪れたことがあります。大広間には、演奏しに来るピアニスト達が目を輝かせてしまうほどの最高のグランドピアノが置いてあり、実際に、その時私と共演したピアニストは共演者の私の存在を完全に忘れて演奏し「チェロ奏者がピアニストを伴奏しているみたい」なんて辛辣で屈辱的なコメントを言われてしまったほどの魅力的で夢中にさせるグランドピアノ。まぁ酷い、なんてことでしょう!
隣接する別の広間には巨大なテレビが置かれ、(何かの)オペラを一緒に鑑賞しましょうヨと7、8人のお年寄り達が集まっていたのですが、見ていると、テレビのボリュームに関して絶え間ない口論が続き、オペラ鑑賞は難航している様子でした。微笑ましかったけれど。
この老人ホームには、音楽学生にも部屋を貸すシステムがあって、そこを借りている学生さんにも知り合ったことがありますが、「ちょっとした門限があるんですよ」なんて言っていたっけ。なるほどね、厳しくもなく緩くもない門限をわかるような気がしました。
ステージからは引退したとはいえ、音楽家としてまだまだ現役のお年寄り達は、学生達にレッスンをしたりしているそうです。それは、音楽に人生を捧げて、最後まで音楽と共に生きて行きたいと思っている音楽家を尊重するヴェルディの志であり、それが今もなお廃れることなく生きている、神聖で特別な憩いの場所なのです。
内部見学者もよく訪れているそうなので、ミラノにいらした折には訪れてみてください。